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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [11]




 少し不機嫌そうに、少しウンザリとした気持ちも潜ませ、桐井はため息混じりに言葉を続ける。
「犬や猫を殺しているのは保健所の人間でしょ? 私たちじゃない」
 サッと頭をあげる鈴の視線を受け、桐井は少し顎をあげて瞳を細めた。
「あなたのお父様は保健所で働いているの。そうなの」
 ゆっくりと、確認するように、事実を堪能するように自らの言葉を口の中で転がす。そうして、ゆるりと口元を緩めた。
「ならば織笠さん御一家は、犬や猫を殺して生活しているという事ね。つまり織笠さん、あなたは犬や猫を殺して学校に通っているというわけだわ」
 息を吸い、瞠目する鈴の表情に、桐井の口元はさらに緩む。
「だってそうでしょう? あなたのお父様は犬や猫を殺すお仕事をなさって稼いでいらっしゃるのですもの。あなたが今着ている制服も、使っている教科書やノートも、毎日の食事も、すべては生き物を殺して得たお金で手に入れているというワケだわ」
 桐井は悪びれる事もせず言ってのけ、そうして鈴へ視線を向けたままポニーテールの少女へ少し首を傾ける。マスカラで黒々と調えられた睫毛が、嘲るように一度瞬いた。
「織笠さん、あなたに彼女を責める権利なんてありませんのよ。むしろ彼女に感謝すべきですわ」
「え?」
「だってそうでしょう? 彼女のように保健所へペットを連れてきてくださる方や、ペットを捨ててくださる方がいらっしゃるからこそ、あなたのお父様のお仕事は成り立っているのですもの。ペットを捨ててくださる方がいらっしゃらなかったら、あなたは今、こうして学校に通う事すらもできませんのよ」
 そうして桐井は、右手の人差し指を唇に当て、見下すようにカラカラと嗤った。
「犬や猫を殺して毎日の生活を送っているような分際で、よくもまぁエラそうな口が叩けますこと」



「ひどい」
 ツバサは右手で口を抑えたまま呟いた。
「ひど過ぎる」
 動くのは唇のみ。それ以外は微動だにせず、瞬きすらできず、ただ呆然と椅子に腰をおろしたまま智論を凝視している。
 一方の智論はただひたすらに窓の外を見つめたまま。話し始めてからここまで、一度もツバサや美鶴へ視線を向ける事はしなかった。
「うん、私もひどいと思った」
 まるで自分には関係のない作り話でもしているかのような智論の口ぶり。でもそれは、務めてそう演じているようにも見える。
「あまりにひど過ぎて、嘘だと思った」
 しかし、それは真実だった。口論と言うか、後半は桐井から鈴への一方的な屁理屈。
 保健所の仕事は動物の殺傷ではない。他にもやるべき仕事が山積みになっている現場で、殺処分のような仕事など無い方がありがたいに決まっている。だが、そのような現状を知らない人間には、殺処分という仕事も単なる稼ぎ仕事と同じになってしまう。
 理不尽な言いがかりをつけられた翌日、鈴は我が目を疑った。
 登校してきた教室の自分の机の上に、冷たくなった猫の遺骸が乗せられていた。『猫殺し』そんなメモまでご丁寧に添えられていた。そしてその日の夕方、織笠鈴は学校の屋上から身を投げた。生徒はほとんど下校してしまった夕方の事。闇が辺りを包もうとしていた時分の事で、発見したのは雇われ警備員だった。
「学校は、とにかく事件を隠した。でも私は納得できなかった。だからおじいちゃんを問い詰めに行った」
「おじいちゃん?」
「私、理事長の孫なの」
 智論の言葉にツバサも美鶴もポカンと口を半開きにする。だが智論は、理事長の孫という事実など何でもないといった態度で、その話題にはそれ以上は触れなかった。今は智論の素性など関係ないのだから当たり前なのかもしれないが。
「でもおじいちゃん、理事長は、他の生徒の為だと言った。下手な混乱を起こせば他の生徒へ影響が出る。三年生はこれから受験も正念場だし、唐渓に我が子を通わせている親の多くは、世間への体裁が毎日の生活や仕事に多大な影響を及ぼす立場にある。何より死んでしまった人間はもう生き返らないのだ。死んだ人間によってまだ生きている他の生徒たちが影響を受けるのは、学校としてはあるまじき姿なのだと」
 一人の命より、他の生徒の将来や親の体裁の方が大事なのか。
 もちろん、他の生徒も亡くなった織笠鈴と同じく大切な存在だ。そう、織笠鈴も、他の生徒と同じく学校にとっては大切な一生徒のはずなのに。
 納得のできない思いを胸に湧き上がらせながら、だが祖父と対等に議論できるほど智論は智恵も知識も説得力も持ち合わせてはいなかった。
 校内では、織笠鈴の自殺は退屈な日常を楽しませるゴシップ的な話題としてしか扱われなかった。
 こんなの、正しいはずがないのに。
 だが、では自分はどうしたいのか? 何が正しいというのか?
 答えも出せない智論の耳に、やがて別の噂が飛び込んできた。
 織笠鈴の自殺を世間に暴露しようとしている生徒がいるらしい。
 誰だろう?
 噂を頼りに探し回り、やがて織笠鈴に彼氏がいた事を突き止めた。
「それが、あなたのお兄さん」
 そこで初めて智論はツバサを見た。
「あなたのお兄さん。涼木(すずき)魁流(かいる)先輩」

 唐草ハウスの庭で向かい合った男子生徒は、見た目はとても柔らかそうだった。少し目にかかる前髪が顔に影を落し、落ち着いているというよりどことなくネガティブな印象も受けた。
 だが、それは全体から受ける印象だけだ。前髪の奥に潜む瞳は、意志そのもの。芯の強い人間なのだなと、智論は直感した。
「僕が涼木魁流だけど、君は?」
 いくぶん警戒しながらもハッキリと名乗るその声には好感が持てた。だがら智論も単刀直入に述べた。
「織笠先輩の件で、涼木先輩が学校を訴えようとしていると聞いたのですけれど」
「学校を? 僕が?」







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